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寿福山 ​長勝寺

日蓮宗

日蓮宗の寺院

はじめに

貴重な資料として残っているのが明治十年九月に東京府が独自に作成した「寺院明細簿」です。創立月日は、元和八年三月十八日とさらに詳しくなり、檀家は十三戸で変わらないものの、境内は二反二畝十五歩、境外民有地は一町六反一畝三歩(内訳は田が一町五反二畝、畑は九畝三歩)と、かなりの寺域となりました。
 現在の本堂は、明治41年に第三十三世・智詮院日明師(坂本詮妙住職)が大修覆を行ない、その後、第41世中興上人・慈山院日誠上人(飯島玄忠師)の代に更なる大改修を行ったものです。

妙見木像は千葉氏の信仰対象であり、昭和57年に同じく足立区有形文化財として登録されています。現在は中山法華経寺から離れ、池上本門寺末となっています。 平成二十四年になって、京仏師・須藤光昭によって台座に補修が加えられる、雲に腰を掛けて両足を踏み下ろし、波間に浮かぶ亀に両足をのせた椅坐の姿勢である。妙見菩薩は北辰(北極星)の神格化であり、後背に七星を負っているのも、それによる。 亀を含む全身が赤く彩色され、亀甲とよろいに金泥で詳細な模様を描き、見る目に鮮やかである。髪は群青、眉・瞳は黒と白、唇を朱色に塗るなど、細部の彩色も丁寧であり、小像としての愛らしさも感じられる。台座・亀・像は別材で、亀の背にほぞで像の両足を挿し込む。また、亀の首も挿し込みである。妙見菩薩は、一般的には刀を振り上げた武装神の姿で表されるなど、様々な像様を持つ。乗亀の姿は、北方の守護神・玄武との関わりによるといわれる。こうした姿の妙見菩薩は、千葉氏が勢力を張った下総地域に多く作例が残っており、同尊を戦神として厚く信仰した千葉氏との関わりが想定される。なお像の背中には墨書があり、「南無妙見大菩薩」の名号が記される。

妙見様
長勝寺の概要

宮城清左衛門が開基

赤山街道の観音橋から西に入る大師道は、通称七曲り街道といわれ、旧伊興村の中心部を通る古い幹線道路ですが、この道からさらに左に入ったところにあるのが、日蓮宗の長勝寺(伊興3-11-19)です。
 伊興の名刹として知られ、「新編武蔵風土記稿」にも長文の記事が掲載されていますが、まずその全文を紹介しましょう。
 「長勝寺 本寺前に同じ。寿福山と称す。本尊三宝を安ず。開山智勝院日座、寛文9年六月二十二日寂せり。開基は名主林蔵が先祖宮城清左衛門吉重なり。元和八年当寺を起立し、自ら逆修して法名蓮華院長勝日法という。則寺号とす。吉重は寛永十四年正月十三日病没せり。宮城の由緒詳ならず。私録の過去帳に宮城加賀守藤原吉次、法名日妙とあり、又領家村実相寺の古過去帳にもかく記したれど、卒の年代を記さず、又宮城系図にはこの人を載されど、清左衛門の先祖にして干葉氏の家人なりし由しは家に云伝へり」。
 冒頭に「本寺前に同じ」とあるのは、その前の項に記載されている真国寺の「日蓮宗下総国葛飾郡中山村法華寺末」と同じという意味で、山号を寿福山と言い、開山は万治二年(一六五九年)、中山法華経寺の智性院日座上人によって行なわれたとされています。
 開基はこれより古く。「風土記稿」によれば宮城清左衛門が逆修して、蓮華院長勝日法と名乗って元和八年(一六二二年)に開基壇越となったことから、寺号を長勝寺と称したとあります。

「本尊三宝を安ず」の本尊とは、題目(南無妙法蓮華経)、釈迦如来、多宝如来の三宝のことで、題目を中心に右に釈迦、左に多宝如来を描いた大曼陀羅が本尊です。現在は本堂須弥壇中央の背後壁に、日輪に納められた墨書の大曼陀羅を掛けられ、その前に平成八年、仏師・石黒見一の作である釈迦如来の像が安置され、その後背には、頂部に多宝塔、両脇に四菩薩像が配されています。

ご本尊

千葉次郎勝胤を供養

千葉様

長勝寺を語る場合に、不可欠なのが千葉氏との関わりであり、なかでも千葉次郎勝胤の墓石についてです。「新編武蔵風土記稿」には、これについても長文の記事を載せております。
 「千葉勝胤墓 村の中央小名横沼の内、長勝寺の免田の傍にあり。長五尺許り、碑面に千葉次郎勝胤公墓と記し、下の方に宮城三右衛門、市原四郎兵衛、宮城忠左衛門、常田次左衛門等四人の姓名を彫たり。されど卒年を載せず。此四人の内三右衛門と次左衛門とが子孫は廃家となれりと云。此所にて勝胤の墓あるゆへを問へど、土人も来由を知らず。思ふに既に小田原役帳にも干葉の所領の由載たれば、其領地なる故当所へ葬しなるべし。又下の方に彫せる四人の者、皆彼家人なる故に追幅の為に建しならん。林蔵が家に古き私録の過去帳あり、その内に干葉次郎勝胤公、永禄七甲子正月八日と載たり、又本郡佐野新田名主勘蔵は、勝胤の子・新蔵胤信が子孫なり。彼家伝によれば、勝胤は里見義弘と北条氏康の鴻ノ台合戦の時、永禄七年正月八日打死せしと云。按に小田原記及び其時の戦を記せしものに勝胤が打れしことは見えず。且千葉系図を記せしものに此大は干葉介孝胤の子にして天文二年五月二十二日卒すとあり、又或る人の所蔵せし家譜によれば、当家二十二代千葉介孝胤の嫡男にて、始め太郎或は鶴寿丸と号し、後千葉介と改め、文明二年に生まれ、亨禄五年五月二十一日卒す。法温を常蔵院其阿弥陀仏、行歳六十三と載たり。尤亨禄五年は即天文改元の年なり、これによればとかく天文の初に卒せし大ならん、永禄七年の伝は、恐くは非ならん」。
 このように千葉次郎勝胤については、鴻ノ台合戦での戦死説、病死説があり、また没年もまちまちで定かでありません。その墓についても、敵に首級を奪われないように持ち帰って埋葬した首塚との説もあります。
 これらを勘案して、長勝寺縁起は「万治二年、当時開基檀越である宮城清左衛門が先祖の主家であり、里見と北条の争いに、里見に味方して落命したといわれる千葉次郎勝胤公の菩提を弔うために、千葉氏に願い、領地の一部の割譲を受けて、中山法華経寺の智性院日座上人を開山に迎えたことに始まる」となつています。
 千葉勝胤の墓は、長勝寺の北西の方角(伊興3-23-24)にありましたが、現在では長勝寺境内に場所を移し管理・供養しています。村の古老の話によると、ここにお参りすると虫歯の痛みなどがなくなるといわれ、子供の病いを治すものとして信仰を集めていたようです。この墓石は、昭和57年に足立区有形文化財(歴史資料)に登録されています。

由緒ある「六万部塚」

六万部経塚

長勝寺が管理し、地域の名所となっているのが「六万部塚」です。七曲り街道から長勝寺へ入る道の角にあるこんもりした竹山の塚がそれですが、現在は新たに大きな題目碑が建ち、すぐにそれと分かります。
 六万部とはヽ法華経二十八訳を繰り返し六万回にわたって唱えるという意味で、開山・日座上人が宝永二年(一七〇五年)に国土の平和と安穏、この土地の五穀豊穣を祈願して昼夜にわたって読経を続け、小石に題目を書写して、この土地に埋めたと言い伝えられています。
 日座上人と題目講の信徒は、昼夜の別なく法華経を読誦し、その法声は周囲に響きわたって、多くの人の信仰を集めたことから、以来、人々はこの地を六万部と称し、小石を埋めた塚を六万部塚、または題目塚と呼ぶよう
になりました。
 この塚には「宝永二年霜月十三日立」と刻まれた古い石塔がありましたが、現住職の飯島玄明師が塚の周辺を整備し、平成三年十月十三日、白亜の大きな題目塔を建立しました。

竹ノ塚墓苑のご案内

竹ノ塚墓苑

基本情報

東京都足立区伊興3-11-19

日蓮宗

一般墓、墓石の移設

墓苑案内
長勝寺

寺院概要

寺院概要

住所

〒121-0823 東京都足立区伊興3-11-19

電話番号

03-3899-4011

メールアドレス

アクセス

公共交通機関でお越しの場合

東武スカイツリーライン「竹ノ塚駅」より徒歩7分

お車でお越しの場合

首都高「加賀出口」より約10分
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寺院概要
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